地図から消された島、大久野島探訪2(資料編)

2009年3月16日 17:36 大久野島 上陸

第二桟橋に降り立った廃墟部

広島県の忠海港から小さな客船に揺られること十数分。瀬戸内海の離島、大久野島に上陸した。
第二桟橋に降り立った廃墟部を出迎えてくれたのは、大久野島ならではの光景。

ウサギがいる!

ウサギだ。実はこの島、野生のウサギが数多く住み着いていることで有名なのだ。アスファルト上にウサギが普通にいる。

港の駐車場のウサギ

駐車場のアスファルトの上にもウサギ。本土じゃあり得ない光景が広がっている。
なお、ゆ◎さんは動物が得意でないので、一見ウサギを愛でているように見えるが実は硬直しているだけである。これが精一杯の距離であった。
なぜ大久野島には野生のウサギが大量にいるのか、詳しくは記事の後半にて説明したい。

トンネルの方へ

桟橋を背にして海岸沿いを歩く。トンネルが見えてきた。

トンネルをくぐる

意味深な短いトンネル。その向こう側にはどす黒い色の建物が姿を覗かせている。

発電所跡

トンネルを抜けると巨大な廃墟が全容を現した。発電所跡だ。
かつてこの島には、旧陸軍の毒ガス製造工場である「忠海兵器製造所」が極秘の内に存在していた。本土と隔絶した離島に建てられた工場の電力を賄うため、発電所が設けられたのだ。
当初は発電機3台で稼働していたが、1933(昭和8)年には3台を増設、翌年さらに2台が増設された。なお、1941(昭和16)年には燃料である重油の安定供給が困難になり、本土から11万ボルトの海底ケーブル二本を敷設、既存の発電設備と併用して電力供給を行っていたとのこと。

でかい

壁面にはツタが絡み付き、建物の大きさと合わせて異様な迫力を放っている。夜見たら怖そう。
長年の風化で窓ガラスはほとんど飛び散り、細かく区切られた窓枠だけが残っている。
建物内部はどうなっているのだろうか。

現在、安全のため柵の向こう側への立ち入りは禁じられており、特別な許可が降りない限り内部探索はできない。
ただ、柵の外側からドローンを操作して建物内部を撮影した方の映像がYoutubeに上がっている(発想がすごすぎる)。撮影者から掲載の許可をもらったので引用したい。
入口をくぐると、明るい光が差し込む一面の窓と爽やかな緑が目に飛び込む。外から見ると不気味なのに、不思議と美しささえ感じてしまうのは対照的だ。

内部は広大な吹き抜けになっている。発電機は戦勝国へ賠償物資として供出されたため現存せず、がらんどうだ。

戦争末期、この発電所では秘密兵器「風船爆弾」(※1) の球体部分の製造場所となった。建物内部の広さを生かし、直径10メートルになる球体を送風機で膨らまして、穴が無いかチェックするのだ。
製造にあたっては女学生や国民学校の児童が動員され、209個の風船が製造されたという。
廃墟と化した現在の光景からは想像できないが、かつてここで大勢の女学生や児童達が懸命に秘密兵器を製造する姿があった。

(※1) 和紙をコンニャク糊で貼り合わせて作った気球に爆弾を括り付け、茨城県の海岸からジェット気流でアメリカ本土に向けて飛ばして爆撃する兵器。実際に米本土に到達し民間人の死傷者が発生した。

発電機が残っていた頃の内部写真(1946年10月撮影)写真所蔵:Australian War Memorial

現役時代の発電所はどのような光景だったのだろうか。
戦時中の写真は見当たらなかったが、終戦間もない頃の写真が存在する。大久野島に進駐した英連邦占領軍(オーストラリア軍)によって撮影されたものである。

ディーゼル発電機(1946年10月撮影)写真所蔵:Australian War Memorial

終戦後、建物は米軍の弾薬庫として接収された後、廃墟化した。

では、発電所跡はなぜ今も廃墟として残りつづけているのか。
ここで大久野島の歴史をたどりたい。

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