土倉鉱山2 土倉の歴史を辿る(資料編)

土倉鉱山の歴史

土倉鉱山の位置関係(2018年現在)

土倉鉱山の位置

再度ここで、土倉の位置を振り返りたい。(土倉鉱山1 残雪の鉱山跡へ)でも少し触れたが、土倉鉱山は横山岳(1,132m)と岐阜県境である土蔵岳(1,008m)に挟まれた、標高300mあまりの山深い地にある。
かつてここには、後述する鉱山集落「出口土倉」があり、また北側へ2kmほど入った奥地には「土倉」集落(以後、奥土倉とする)が存在した。

彦根藩の薪炭生産地として(江戸時代)

土倉に人が住み始めたとされるのは江戸時代。『近江伊香郡史』(1953)によれば、当時、彦根藩領(※2) であったこの地に、柳ヶ瀬村(※3) から移住してきた人々が村を形成、やがて彦根藩の藩主であった井伊氏から御用炭の焼き出しを命じられ、薪炭生産地として開拓されてきたのが奥土倉だという。
天和2(1682)年、彦根藩から奥土倉の住民に御用炭の焼き出しが命じられた際の記録が残っており、当時は六戸の家が存在していたとのこと。

この部落開拓の創始は今これを知るに由なしといえども、古老の伝説又は各所に散見する古文書に徹するに、徳川時代の初期即ち延宝天和の頃なるべしと察知さる。
(富田八右衛門(1953)『近江伊香郡史 中巻』p.252)

(※2) 旧木之本町の大部分。なお完全に余談だが、かつて世田谷区にも彦根藩の飛び地があり、廃藩置県直後の世田谷区は彦根県だったという。
(※3) 柳ヶ瀬村(やながせむら)…現・滋賀県長浜市余呉町。
銅鉱の発見と馬車による搬出(明治〜大正)

明治40(1907)年、岐阜県の大工・中島善十郎が奥土倉の杉野川で銅鉱石を発見。
同43(1910)年、田中鉱業株式会社によって採鉱が始まる。山から掘り出された鉱石は馬車によって、16km離れた北陸本線中ノ郷駅へ搬出されたという。奥土倉には鉱山事業所が置かれ、これまで数世帯が製炭業で細々と生計を立てていただけのこの村は、急速に鉱山集落化していく。
大正13年当時、土倉鉱山からは約1781tの銅硫化鉄等が産出されていた。

近代化と空中索道(昭和初期)

昭和9年、日本窒素肥料傘下の朝鮮鉱業開発が採掘権を買収。採鉱の機械化や、奥土倉に浮游選鉱場(初代)を建造するなど、設備の近代化が進められた。
特筆すべきは、鉱石輸送設備として昭和11年に建設された、土倉鉱山から木ノ本駅へ至る13,202mの空中索道である。13,202mて。どんだけ長いねん。この索道については後ほど詳しく触れたい。

奥土倉から出口土倉へ

稼働当時の地図。丸菱地図出版部(1964)『木之本町全図 滋賀県伊香郡』(資料提供:国立国会図書館・許可を得て転載)

山間部の豪雪地帯である土倉鉱山では雪害が多発した。昭和14(1939)年に発生した泡雪崩(※4) では数多くの犠牲者が出た。
この前年、出口土倉に1,700mにわたる坑道が開削されたこともあり、昭和15(1940)年12月、雪害のリスクが大きい奥土倉から出口土倉へ事業所が移転。以後、出口土倉が鉱山町として発展していく。

(※4) 通常の雪崩とは異なり、空気を含んだ雪煙が時速200km以上で流下する雪の嵐。巻き込まれた建物は衝撃で吹き飛ばされる。土倉では「アワ」と呼ばれた。
新選鉱場の完成と全盛期(昭和初期~)

現役時代の選鉱場全景

1942(昭和17)年1月、出口土倉に機械式の新選鉱場が完成。本格的な経営が始まった。地下で採掘された鉱石はトロッコでここまで運ばれ、細かく選別された。
現役時代の新選鉱場の写真を見ると、冒頭、廃墟部で斜面を登り始めた場所(B地点)が分かる。今も残る五本の太い柱は、斜面に沿って建っていた建造物の土台だったのだ。
また、不鮮明だが選鉱場右手からは上空へ向かって伸びた二本の電線のようなものが見える。土倉鉱山で生まれ育った方によって描かれた見取り図と照らし合わせると、選鉱場~木ノ本駅を結んでいた索道ではないかと思える。
⇒参考(白川雅一 土倉鉱山での災害 5ページ目)

選鉱場跡(2009年)

選鉱場の建物は解体撤去されたのだろうか。今では風化したコンクリートの建屋基礎が残るのみとなっている。

空中を行きかう索道

現役当時の索道と選鉱場。横谷堆積場への廃滓索道か

さて、選鉱場で選別された鉱石は索道によって運び出された。最盛期には、選鉱場〜木ノ本駅へ至る索道と、選鉱場で選別された廃棄物を投棄場所へ運搬する「廃滓索道」(選鉱場〜横谷堆積場)が共に稼働していた模様。鉱石を満載したリフトが山あいの空中を次々と行き交う光景は、なんと賑やかなことだろうか。
また、この索道が運んでいたのは鉱石だけでなく、積雪期には生活物資の補給路として主要な役目を務めていたという。食料や洗剤がリフトに乗せられ山奥へ運ばれていたのだろうか。見てみたかった。

訪問時にはこんな場所に索道があったとは思いもしなかったので、痕跡が残っているかどうかは調査していない。
なお、2013年に土倉付近を探索した方のブログを見ると、廃滓索道の鉄塔の一つが、今も人知れず現存している様子が確認できる。廃墟部訪問時もひっそりと雪の中に埋れていたのだろう。
⇒参考(高時村だより「金居原の奇妙な地形」)

土倉鉱山から各地へ運ばれた鉱石

土倉鉱山で採掘された主な鉱石は主に銅、硫化鉄鉱で、その他少量の金、銀なども採掘された。鉱脈は広く、岐阜県・福井県までにも及んでいたとのこと。
良質で含有率の高い鉱石として、索道によって木ノ本駅に運ばれた後、国鉄の貨車に載せられて各地へ運ばれていった。

出口土倉の暮らし

出口土倉に立ち並んだブロック住宅(従業員用住宅)

従業員とその家族が生活していた出口土倉。最盛期の1950年代には、約1,000人が暮らしていたという。
出口土倉には鉱山事務所、従業員用の住宅、小学校の分校、日用品販売所、共同浴場、診療所、理髪店、さらには映画館までがあった。活気に溢れていた頃には週に一度、映画が無料で上映されたという。山奥にいながらにして、娯楽のある生活が送れたのだ。

昭和29年8月時点の年齢別人口。子供が多い

昭和29年当時の土倉の人口を見てみると、全世代の中で子供が一番多い割合を占めていることに驚かされる。人口ピラミッドもきれいなピラミッド型になる。
出口土倉にあった杉野小学校土倉冬季分校(へき地等級1級)(※5) には、昭和29年当時、43人の児童と3人の先生が在籍していた。

(※5) 教職員の「へき地手当」を決めるための等級。1級~5級までのへき地五段階と準へき地があり、5級がへき地度で一番高い。
土倉鉱山へ走っていた国鉄バス

杉野川に沿って索道と国鉄バスが鉱山と木ノ本駅を結んでいた

昭和24(1949)年3月、土倉~木ノ本駅間に省営バス(国鉄バス)が開通し、山奥の鉱山町と木ノ本駅が公共交通で結ばれた。
自家用車がほとんど無い時代、へき地である周辺の村からもバス路線敷設への根強い要望があり、開通時には大々的に盛り上がったようだ。

山間の僻地であり、交通の不便は想像以上にて、北陸本線木之本駅又は中ノ郷駅へ出る場合にも、徒歩又は自転車によるの他なく、村民の交通機関設置に対する要望の声は、年と共に高まりつつあつた(中略)
幾多の困難を克服して、遂に木之本より古橋を経て、土倉に至る五十八粁を杉野線として、新設せらるるの運びとなり、昭和二十四年三月十四日、杉野小学校々庭に於て、本省、並に名古屋鉄道管理局敦賀管理部の鉄道関係者を始め、一般地方有力者参列の下に、盛大なる開通式が挙行せられた。
(富田八右衛門(1953)『近江伊香郡史 中巻』p.240)※「木之本駅」は原文ママ

国鉄バスの停留所は出口土倉にあり、ボンネットバスがUターンしていたという。
あいにくバスの写真は見つけられなかったが、今は冬季封鎖となってしまう旧道に、しかも廃村となったこの地にバスが乗り入れていたことを思うと胸熱である。

日本交通公社『国鉄監修 交通公社の時刻表』1964年9月号(資料提供:国立国会図書館・許可を得て転載)

ついでながら、現役当時の国鉄監修時刻表(現在で言うJTB時刻表)を見てみたい。路線図索引のページを開くと、北陸本線木ノ本駅から土倉に至るバス路線がきっちりと描かれている。(そりゃそうだけど)正式なバス路線だったことが分かる。

日本交通公社『国鉄監修 交通公社の時刻表』1964年9月号(資料提供:国立国会図書館・許可を得て転載)

時刻表を見ると、閉山一年前となる昭和39年当時、一日6往復のバスが行き来していたことが分かる。
なお、冬季は積雪のため60日あまり不通となることがあったという。

このバス路線の廃止年月は正確には不明。しかし、運行区間は木ノ本駅〜金居原に短縮されたものの、近年まで金居原〜土倉は長期休止路線として西日本JRバスに継承されていたとの情報もある。
誰もいない鉱山町へ至る路線が廃止されず、あえて休止状態のままであったことは、復活の可能性があったということだろうか。ロマンのある話である。
⇒参考(不毛企画 乗り物館「1985・夏 国鉄バスネットワークの記録【513】米原線」)

閉山(昭和40年)

現役当時の坑道入口

坑道入口(2009年)

最盛期には月間五千トン規模の操業を行い隆盛を極めた土倉鉱山であるが、1950年代以降、貿易自由化によって外国から安価な鉱石が日本に入ってくるようになると、国内の金属販売価格は大幅に低下。各地の鉱山に不況が訪れる。
含有率の高い高品質な銅鉱石を売りにしていた土倉鉱山も、コスト面から太刀打ちすることができず、昭和40(1965)年8月、閉山となった。
トロッコが行き来していたかつての坑道は、今では闇への入口となっている。

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