廃村・中津川の歴史を調べる上で欠かせないのはこれ。1974年に刊行された野迫川村史である。
この村史には歴史や文化から伝説、年中行事、方言、さらには自生する植物までこと細かく記述されている。図書館で見ているうちに欲しくなってしまったので、天満の古本屋で購入した。
この資料を手に取り、村の概要と歴史を見て行こう。
奈良県南部の秘境っぷりはその1でも触れたが、中津川のある野迫川村もとんでもない僻地である。今のご時世でチベット発言なんてすれば炎上必至。でも当時の野迫川村は自称していたのだ。では何故そんな秘境に、いつから人々が住み始めるようになったのか。
廃墟部での訪問時は、同じ奈良県の五條市から入って行ったので吉野の山奥という感覚が強かったが、県境を越えるとそこはもう高野山。ここは奈良県でありながら奥高野なのだ。実際に足を運ぶまでこの感覚は無かったのでとても新鮮に感じる。奈良県南部と高野山って、もっと遠く離れた場所かと思ってた。
天録2年(972年)、高野山金剛峯寺が残した「僧光序山地売券案」という古文書に、中津川という地名が歴史上初めて出てくる。解説によると、この文書は「金剛峯寺が『中津河村』の山地を手に入れた」という旨のものだという。
永治2年(1141年)、これに対して吉野の金峯山寺が反論。「中津河村は、以前から金峯山寺領の遠津川郷(※1)内にある。金剛峯寺の主張は認められない」と抗議した文書を残している。反論するのに100年以上掛かってるのはシュールだが、中津川の存在が確認できる貴重なやり取りの史料である。
村史では、後年の古文書を根拠に「中津河村」は現在の中津川と一致するとしている。平安後期の中津川には、すでに住人がいて地名があったのだ。初めに中津川に住み始めたのは、きこりや猟師など山仕事を主とする人々で、大塔方面から入り込んだという。また、この地は山深い為に遠津川郷と高野山領の境界が不明確だった。そのため、猟師が高野山領に入り込み仏教の聖地で殺生しちゃう事案が発生したり、また十津川郷人が高野山に無断で境界標の札を掛けたり、中津川の山守が高野山の住人の道具を没収するようなこともあったという。山林をめぐっていろいろ揉めていたみたい。
江戸時代の地図「大和国細見図」(奈良女子大学サイト)を見ると、中津川~紫園~池津川~黄檗峠を通り高野山へ至る道が確認できる。また、現在行き止まりになっている中津川集落より奥にも道が続いており、山の中を旧大塔村猿谷へ続く道も存在したようだ。(廃墟部で通った現ルートとは別ルート)
平地が少ない中津川では、農業と兼業で、杉やヒノキを使った箸作りが行われていた。また周辺の集落では、冬の寒さを生かした高野豆腐の製造が行われていた(高野豆腐の「高野」って高野山のことだったんですね)。
そして中津川周辺の住民は、米や塩を入手するために生産物を担いで高野山へ売りに行き、また高野山からも行商人が行き来していた。そのため高野山と繋がる道が賑わっていたようだ。
近代までの暮らしで特徴的な物をピックアップした。
・正月二日は「ヤマハジメ」。薪を少し採って帰り、お供えをした
・正月十一日は「初登りの日」。村から数人が代表になって高野山の宿坊にお参りしていた
・端午の節句には鯉のぼりを必ず上げ、チマキを吊るしてよく食べた
・盆踊りが行われていた。中津川では大きな提灯を吊るしてお堂の近くで踊っていた
夜這いはかつて、全国で見られた風習(※2)であるので色眼鏡で見ていけない。地方によっては戦後まで残っていた地域もあったという。ただこんな僻地にもあったとは驚いた。山奥であれども、たしかにかつては若い男女がいたのだ。
明治に入ると行政区画が目まぐるしく変わる。かつての中津川は堺県や大阪府に属していたこともあった。明治22年(1888年)に町村制が施行。中津川村は周辺の村と合併し、奈良県野迫川村大字中津川となる。野迫川村役場は池津川に置かれた。
明治33年(1900年)、紀和鉄道(現・和歌山線)が五條~和歌山間に開通すると、五條や橋本まで歩けば鉄道に乗って和歌山や大阪に出られるようになった。
さらに昭和5年(1930年)、高野山電気鉄道(現・南海高野線)のケーブルが極楽橋から高野山まで開通し、高野山~大阪間に鉄道のみのルートが完成した。これにより五条経由で大回りしなくても、難波まで一気に出られるようになった。高野山まで歩くという前提も凄いが、当時はそれでも楽になったと喜ばれたのではないだろうか。
野迫川村施行前の明治9年(1876年)、中津川村には人民共立の小学校(中津川小学校の前身)がすでに存在している。集落の人々が維持費を出していたようだ。この年の中津川の人口は19世帯67人。なお、野迫川村立の中津川小学校が開設されるのは明治20年である。
野迫川村は昭和11年頃の記録でも電線が通っていないこと、村で見受けられる乗り物は郵便配達用の自転車くらいであることなど、当時としても僻地さが際立っていた感が見受けられる。
電灯は明治40年頃から各集落と電力会社の間で交渉されていたが(交渉して来るものなんだ)、難航したようだ。中津川に明かりが灯ったのは昭和16年(1941年)。太平洋戦争開戦の年である。
戦時中、中津川や野迫川村への空襲の記載は見当たらなかったが、国から野迫川村へ指導があり防空演習や金属回収が行われていたようだ。終戦間際には、陸軍が池津川へ松根油作りの為に来ていたという。なお出征で中津川からも戦没者が2名出ている。
時は戦前に戻るが、昭和12年に出版された「吉野熊野国立公園及其附近」という観光ガイド的な書物に中津川が登場。ハイキングルートの経由地になっている。中津川を通るのは「天川、大塔、野迫川方面を探り高野山への探勝」というコースで、2泊3日を要するもの。ハイキングにしては歩きすぎなレベルである。
戦後の昭和27年(1952年)、南海バスが野迫川村へ乗り入れを始める。
特筆すべきは昭和37年(1962年)の中津川線(南海バス・奈良交通バス)開設である。訪問時はこんなこと夢にも思っていなかった。痕跡の調査も出来ておらず、中津川小学校付近まで乗り入れていたのかは不明。それでも中津川線と言うくらいなので、県道734号から集落に通じる分岐あたりまでは来ていたのではないか。廃村のどこかに「中津川」停留所が存在したと思うと、大きなロマンを感じる。
この中津川線は、路線の途中にある紫園の銅山(後述)への輸送が主目的だったのだろうか。路線開設からわずか5年後の昭和42年(1967年)頃には、銅山閉鎖と台風による道路事情の悪化という理由で奈良交通バスが早くも運休してしまっている。その後昭和46年(1971年)に両社とも廃止になった。
面積が広大な(155㎢もある)野迫川村は、各集落が離れているため大字ごとに小規模な小学校があった。中学校は北股に作られ、中津川など遠方の生徒の為の寄宿舎「しゃくなぎ寮」も作られた。
しかし若者が都会へ出て行くようになる。不安定な山林労務より、都市部での就職を望むためだ。
野迫川村の人口は、昭和30年に3500人を数えていたのをピークに、過疎化を迎える。
上記の台詞があるのは、村史に転載されている昭和42年の大和タイムス(現・奈良新聞)の特集記事である。若者は仕事の為に都市部へ出て行った。これを機に、一家総出で村から引き揚げていく世帯、老人だけ残して村外に生活拠点を移す世帯などが見られるようになり、人口が減っていく。また、昭和28年に発生した紀州大水害でも野迫川村は大きく被災し、村の産業であった高野豆腐工場と製箸工場が全滅。多くの村民を離村させた。
中津川に追い打ちをかけたのは、紫園と立里付近にあった金屋淵鉱山の閉鎖が決定的である。
金屋淵鉱山は三井系列の鉱山で、銅・硫化鉄などが月3000~4000トンも採掘されていた。鉱石は紫園から索道(※3)で五條に運ばれていたという。鉱山では従業員500人が働き、周辺には活気が溢れて配給所や旅館が立ち並んでいた。ところが鉱石の質の低下と生産費の増大により、廃坑となってしまう。
中津川小学校は昭和43年に児童数5人となったのを最後に、昭和44年4月に休校。その後復活すること無くその役目を終えた。村史の図からは中津川が無人化した年は不明だが、すでに住民の多くが本籍だけ残して家を空けていた様子が次の文章から伺える。やがてそれすらも難しくなり廃村となったのだろう。
過疎化、災害、鉱山の閉山。多くの要因が重なり、平安時代より賑わった村が自然の中へ朽ちつつある。
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