奈良廃村紀行4 廃村中津川、歴史を辿る(資料編)

「野迫川村史」野迫川村史編集委員会 1974

廃村・中津川の歴史を調べる上で欠かせないのはこれ。1974年に刊行された野迫川村史である。
この村史には歴史や文化から伝説、年中行事、方言、さらには自生する植物までこと細かく記述されている。図書館で見ているうちに欲しくなってしまったので、天満の古本屋で購入した。
この資料を手に取り、村の概要と歴史を見て行こう。

野迫川村の位置

奈良県のチベット
野迫川村は吉野郡十津川村の北西に位置し、東は大塔村、北から西にかけては和歌山県伊都郡高野町、花園村、有田郡清水町と境を接している。野迫川村は諸山系によって囲繞され、川原樋川の穿入曲流にはばまれて僻地である奥吉野山間のなかでもさらに隔絶地域をなし、「奈良県のチベット」と呼ばれてきた。(p.87)

奈良県南部の秘境っぷりはその1でも触れたが、中津川のある野迫川村もとんでもない僻地である。今のご時世でチベット発言なんてすれば炎上必至。でも当時の野迫川村は自称していたのだ。では何故そんな秘境に、いつから人々が住み始めるようになったのか。

高野山とのかかわり
本村は封鎖性が強く、西方は和歌山県と境して、本県方面よりも、高野山との交通・経済・文化等の関係が深い高野山文化圏に属している。(p.3)
行政上、大和側に属しながら生活圏は紀州の、いわゆる高野山文化圏に依存する寒冷山村で、一名「奥高野」として親しまれております。(刊行のことば)

廃墟部での訪問時は、同じ奈良県の五條市から入って行ったので吉野の山奥という感覚が強かったが、県境を越えるとそこはもう高野山。ここは奈良県でありながら奥高野なのだ。実際に足を運ぶまでこの感覚は無かったのでとても新鮮に感じる。奈良県南部と高野山って、もっと遠く離れた場所かと思ってた。

中津川の位置

中津川(中津河村)の出現

天録2年(972年)、高野山金剛峯寺が残した「僧光序山地売券案」という古文書に、中津川という地名が歴史上初めて出てくる。解説によると、この文書は「金剛峯寺が『中津河村』の山地を手に入れた」という旨のものだという。
永治2年(1141年)、これに対して吉野の金峯山寺が反論。「中津河村は、以前から金峯山寺領の遠津川郷(※1)内にある。金剛峯寺の主張は認められない」と抗議した文書を残している。反論するのに100年以上掛かってるのはシュールだが、中津川の存在が確認できる貴重なやり取りの史料である。

(※1) 遠津川郷(十津川郷)…中世において遠津川(十津川)という地名は、現在の十津川村より北寄りの旧大塔村・野迫川村付近を指す。金峯山寺から見て遠くにあることが由来。なお、郷というのは奈良時代に設定された地方行政区分の単位。

村史では、後年の古文書を根拠に「中津河村」は現在の中津川と一致するとしている。平安後期の中津川には、すでに住人がいて地名があったのだ。初めに中津川に住み始めたのは、きこりや猟師など山仕事を主とする人々で、大塔方面から入り込んだという。また、この地は山深い為に遠津川郷と高野山領の境界が不明確だった。そのため、猟師が高野山領に入り込み仏教の聖地で殺生しちゃう事案が発生したり、また十津川郷人が高野山に無断で境界標の札を掛けたり、中津川の山守が高野山の住人の道具を没収するようなこともあったという。山林をめぐっていろいろ揉めていたみたい。

集落がいくつかできてくると、それら集落の統轄とともに、それぞれの集落名が必要となってくる。このため「中津河村」がうまれてくる(後略)(p.145)
「中津河村」の開発は、基本的にいって吉野側からおこなわれたものではなかろうか。また、金峯山寺の支配下にあったことから、地理的にいえば、開発の経路は天川→大塔方面からであり(中略)金峯山寺の支配下の住民を中心として開発がすすめられたものとみて差支えないであろう。(p.146)

大和国細見図(1848・嘉永元年)

徒歩交通時代(中世・近世)

江戸時代の地図「大和国細見図」(奈良女子大学サイト)を見ると、中津川~紫園~池津川~黄檗峠を通り高野山へ至る道が確認できる。また、現在行き止まりになっている中津川集落より奥にも道が続いており、山の中を旧大塔村猿谷へ続く道も存在したようだ。(廃墟部で通った現ルートとは別ルート)

平地が少ない中津川では、農業と兼業で、杉やヒノキを使った箸作りが行われていた。また周辺の集落では、冬の寒さを生かした高野豆腐の製造が行われていた(高野豆腐の「高野」って高野山のことだったんですね)。
そして中津川周辺の住民は、米や塩を入手するために生産物を担いで高野山へ売りに行き、また高野山からも行商人が行き来していた。そのため高野山と繋がる道が賑わっていたようだ。

米・塩の自給ができない以上、孤絶でくらしていくわけにはいかなかったし、生産物である箸・杓子あるいは経木・高野豆腐を販売するため高野山などに出かる必要はいくらもあった。(p.309)※「出かる」は原文ママ
風習

近代までの暮らしで特徴的な物をピックアップした。
・正月二日は「ヤマハジメ」。薪を少し採って帰り、お供えをした
・正月十一日は「初登りの日」。村から数人が代表になって高野山の宿坊にお参りしていた
・端午の節句には鯉のぼりを必ず上げ、チマキを吊るしてよく食べた
・盆踊りが行われていた。中津川では大きな提灯を吊るしてお堂の近くで踊っていた

夜這いの風習
大正時代になると、ヨバイの風習はもうなくなったが、それまでは盛んであった。中津川では「若いもんの入らんとこと、雪の吹き込まんとこはない」という言葉があって、若い衆は暇と根でよくヨバイしたという。立里や池津川あたりからも来たし、また中津川からも立里、池津川やあちこちに行った。遠いところへは連れもって行ったという。そして、たいてい娘が孕んで結婚する。(p.606)

夜這いはかつて、全国で見られた風習(※2)であるので色眼鏡で見ていけない。地方によっては戦後まで残っていた地域もあったという。ただこんな僻地にもあったとは驚いた。山奥であれども、たしかにかつては若い男女がいたのだ。

(※2) 民俗学者の赤松啓介氏は、著書「夜這いの民俗学」(1994)で「夜這いはみだらな風習ではなくムラで一般的に行われてきた現実である」と断言している。なお、近代に入り大正中期頃から村落共同体の団結が緩み、若い女性が都会へ働きに出て行くようになって夜這いは終焉したようだ。(同著p.103-105, p.111-113)ついでながら、赤松氏は「市町村史で夜這いについて書いている本があれば見せてほしい」とも述べている(同著p.45)が、あったよここに!
野迫川村の誕生・相次ぐ鉄道の開通

周辺の主な鉄道路線図(昭和5年頃)

明治に入ると行政区画が目まぐるしく変わる。かつての中津川は堺県や大阪府に属していたこともあった。明治22年(1888年)に町村制が施行。中津川村は周辺の村と合併し、奈良県野迫川村大字中津川となる。野迫川村役場は池津川に置かれた。

明治33年(1900年)、紀和鉄道(現・和歌山線)が五條~和歌山間に開通すると、五條や橋本まで歩けば鉄道に乗って和歌山や大阪に出られるようになった。

橋本や五條まで歩くのはあたりまえになっていた。もちろん男子だけではない。婦人や子供たちも同じことであった。病人はカゴで高野の町医者や大塔村の宇井の中島医師のところまで運んだという。(p.497)

さらに昭和5年(1930年)、高野山電気鉄道(現・南海高野線)のケーブルが極楽橋から高野山まで開通し、高野山~大阪間に鉄道のみのルートが完成した。これにより五条経由で大回りしなくても、難波まで一気に出られるようになった。高野山まで歩くという前提も凄いが、当時はそれでも楽になったと喜ばれたのではないだろうか。

生活・道路事情

野迫川村施行前の明治9年(1876年)、中津川村には人民共立の小学校(中津川小学校の前身)がすでに存在している。集落の人々が維持費を出していたようだ。この年の中津川の人口は19世帯67人。なお、野迫川村立の中津川小学校が開設されるのは明治20年である。
野迫川村は昭和11年頃の記録でも電線が通っていないこと、村で見受けられる乗り物は郵便配達用の自転車くらいであることなど、当時としても僻地さが際立っていた感が見受けられる。

今日も全村なおランプで電灯はなく、最近に至って若干の奈良県道が現れて来ているが、未だ村内を一貫するには至らない。随って乗物なども、極めて少数の自転車が、郵便集配用その他に、村の一部分で利用されて居る外、村の北端の一部落だけに、自動車が時々のぞきこむくらいのことである。(p.722-723)

電灯は明治40年頃から各集落と電力会社の間で交渉されていたが(交渉して来るものなんだ)、難航したようだ。中津川に明かりが灯ったのは昭和16年(1941年)。太平洋戦争開戦の年である。

戦時中、中津川や野迫川村への空襲の記載は見当たらなかったが、国から野迫川村へ指導があり防空演習や金属回収が行われていたようだ。終戦間際には、陸軍が池津川へ松根油作りの為に来ていたという。なお出征で中津川からも戦没者が2名出ている。

戦前のハイキングルート

時は戦前に戻るが、昭和12年に出版された「吉野熊野国立公園及其附近」という観光ガイド的な書物に中津川が登場。ハイキングルートの経由地になっている。中津川を通るのは「天川、大塔、野迫川方面を探り高野山への探勝」というコースで、2泊3日を要するもの。ハイキングにしては歩きすぎなレベルである。

路線バスがあった

戦後の昭和27年(1952年)、南海バスが野迫川村へ乗り入れを始める。

バス路線の変遷

特筆すべきは昭和37年(1962年)の中津川線(南海バス・奈良交通バス)開設である。訪問時はこんなこと夢にも思っていなかった。痕跡の調査も出来ておらず、中津川小学校付近まで乗り入れていたのかは不明。それでも中津川線と言うくらいなので、県道734号から集落に通じる分岐あたりまでは来ていたのではないか。廃村のどこかに「中津川」停留所が存在したと思うと、大きなロマンを感じる。

この中津川線は、路線の途中にある紫園の銅山(後述)への輸送が主目的だったのだろうか。路線開設からわずか5年後の昭和42年(1967年)頃には、銅山閉鎖と台風による道路事情の悪化という理由で奈良交通バスが早くも運休してしまっている。その後昭和46年(1971年)に両社とも廃止になった。

過疎化と若者

面積が広大な(155㎢もある)野迫川村は、各集落が離れているため大字ごとに小規模な小学校があった。中学校は北股に作られ、中津川など遠方の生徒の為の寄宿舎「しゃくなぎ寮」も作られた。
しかし若者が都会へ出て行くようになる。不安定な山林労務より、都市部での就職を望むためだ。
野迫川村の人口は、昭和30年に3500人を数えていたのをピークに、過疎化を迎える。

中学卒業生の四〇%は高校進学、六〇%は就職、いずれも村を出てしまう。進学者は高校卒後そのまま都市部に就職、村には一人も戻らないし、就職組はほとんど大阪方面に出る。(中略)村で働くといえば山林労務以外にない。青年の足を止める職場がないからだ。(p.441)※「高校卒後」は原文ママ
およそ八百人と見込まれる山林労務者は、ほとんど四十歳以上の男女。青年は一人もいないという。「山仕事みたいな、おらたちはイヤだ」と中学生は口をそろえ、村に残ることはきらう。(p.441)

上記の台詞があるのは、村史に転載されている昭和42年の大和タイムス(現・奈良新聞)の特集記事である。若者は仕事の為に都市部へ出て行った。これを機に、一家総出で村から引き揚げていく世帯、老人だけ残して村外に生活拠点を移す世帯などが見られるようになり、人口が減っていく。また、昭和28年に発生した紀州大水害でも野迫川村は大きく被災し、村の産業であった高野豆腐工場と製箸工場が全滅。多くの村民を離村させた。

金屋淵鉱山の閉鎖

中津川に追い打ちをかけたのは、紫園と立里付近にあった金屋淵鉱山の閉鎖が決定的である。
金屋淵鉱山は三井系列の鉱山で、銅・硫化鉄などが月3000~4000トンも採掘されていた。鉱石は紫園から索道(※3)で五條に運ばれていたという。鉱山では従業員500人が働き、周辺には活気が溢れて配給所や旅館が立ち並んでいた。ところが鉱石の質の低下と生産費の増大により、廃坑となってしまう。

金谷淵を中心とする中津川地区は一挙にさびれ、現在居住しているのは地元民わずか十二戸(四十一人)。十一校を数える村内小学校の中で、野川小に次いで生徒数の多かった中津川小も六十人の生徒が鉱山閉鎖とともに転校、現在わずか四人の生徒となって村教委の頭を悩ませている状態。(p.441)
(※3)その2で遭遇した索道も位置的にこの関連か。ちなみに険しいこの地では索道が古くから活用され、物資専用の索道会社がいくつも設立され稼働していた。高野山と野迫川村上垣内を結んでいた十津川索道や、橋本と野迫川村を結んだ紀和索道など。安全の為か人の乗車は出来なかったが、それでも道路事情が悪い時代にはたくさんの資材や高野豆腐などが運搬されていた。いずれも現存しない。空中を高野豆腐が走ってる絵はとてもシュールである。この目で見たかった。

村史発刊前の中津川の光景

中津川小学校は昭和43年に児童数5人となったのを最後に、昭和44年4月に休校。その後復活すること無くその役目を終えた。村史の図からは中津川が無人化した年は不明だが、すでに住民の多くが本籍だけ残して家を空けていた様子が次の文章から伺える。やがてそれすらも難しくなり廃村となったのだろう。

なかでも中津川は明治十五年(一八八二)の人口の三分の一に減少し、実質的には村落共同体は内部崩壊し、離村者がわずかに夏季に帰村し、共同体財産の維持、管理が行われているにすぎない。(p.109)

過疎化、災害、鉱山の閉山。多くの要因が重なり、平安時代より賑わった村が自然の中へ朽ちつつある。

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