地図から消された島、大久野島探訪2(資料編)

戦前の大久野島

芸予要塞

かつて大久野島には数戸の民家があり、農家と灯台守が暮らしていた。島内には祠があり、島民からの崇拝を集めていたという。
のんびりした時間が流れていた島に、第一の転機が訪れるのは明治時代のこと。

日露戦争直前、軍港である呉を敵国艦隊の攻撃から防衛するため、芸予諸島に要塞が築かれることが決まった。1900(明治33)年、忠海町に芸予要塞司令部が置かれ、大久野島の北部・中部・南部に砲台が据えられた。
幸いにも敵艦隊が瀬戸内海へ侵入することはなく、世界的な軍縮の流れもあり、1924(大正13)年に芸予要塞は廃止される。大久野島の砲台もこの場で使われることは無いまま撤去となった。

芸予要塞司令部が廃止された忠海の町を、大正の不況(戦後恐慌)が襲う。
ここで持ち上がったのが、陸軍の化学兵器工場の誘致話だ。不況に喘ぐ町の人々を救いたい忠海町長の熱心な活動により、不況に強い軍需工場を大久野島に設ける計画が決まった。
平成の現代でも中央省庁の地方移転計画に各地から熱烈なラブコールが上がっているように、陸軍の化学兵器工場が地方の離島にやってくると言うのだから、地元の歓喜ぶりは相当なものだったようだ。

大正の不況を大久野島によって乗り切り、忠海町はうるおった。ありがたい島であった。忠海は旅館、飲食、飲み屋、映画館、遊郭など活気があった。(中略)
大正時代は、他の地方が不況のときだから特に忠海が目立った。近郷の人びとが忠海をめがけてきた。(大川淳三「大久野島の語りをもう少し続けていきたい」『会報「記録にない島」第1号』P.3)

不景気のどん底に喘いだ当時の世情に、突如としてこの島を震駭させた工場建設工事は、地方人をどれ程喜ばせたか、正に早天の慈雨であった。人々は異口同音に久野島景気(※2) と呼んだ。(服部忠「秘録 大久野島の記」『会報「記録にない島」第5号』P.3)

(※2) 地元では大久野島のことを“久野島”と呼んでいた
毒ガス戦を想定し始める世界情勢

さて、陸軍側にも事情があった。
第一次世界大戦後、人道的見地から、化学兵器や生物兵器の使用を禁じたジュネーヴ議定書が発行された。しかし条約で禁じられたのは使用のみで、開発や生産、保有することに関して制限は設けられなかった。
兵器の近代化が進む中で、各国で極秘のうちに化学兵器の研究が進められていく。陸軍は1925(大正14)年、東京市牛込区(現・新宿区)の陸軍科学研究所に毒ガスを取り扱う「第3部」を新設。日本でも毒ガスの研究が始まった。

国際条約により使用禁示となっておる毒瓦斯即ち化学兵器の研究は各国とも極秘裡に実施しつゝあったが本邦においては大正14年に科学研究所に第3部を新設して本格的研究調査に着手しその研究成果に基き昭和2年には之れが製造工場を火工廠管下の製造所として建設することになった。(桜火会(1969)『日本陸軍火薬史』P.187)

そんな中発生したのが関東大震災である。
東京の市街地に化学兵器を扱う研究所があると、不測の事態が発生した場合極めて危険であることから、移転先が求められた。ここで、陸軍にとっての条件を満たした大久野島に白羽の矢が立てられた。

製造工場の位置は外部に対する秘密保持と発生する排気汚水の関係上なるべく住民地帯と隔絶しあるを要し而も作業遂行上の利便の為めにはある程度住民地帯に近接しあるを可とする。此の二つの相反する条件を比較的充足する場所として瀬戸内海の孤島で広島県豊田郡忠海町に属する無人島(※3) 大久野島(陸岸から4粁)が選ばれた。(『日本陸軍火薬史』P.187)

(※3) 注:無人化したのは立ち退き後
忠海兵器製造所の開設

毒ガスの製造所が大久野島に置かれることが決まり、1927(昭和2)年、一般人の上陸が禁止された。当時大久野島で暮らしていた数戸の世帯もそれぞれ島外へ立ち退きとなった。

「久野島へどうしても陸軍の工場を作らにゃならん、あんたとこが引越してくれれば、忠海に金が落ちる。景気がよくなるから、あんたとこ一軒泣いてくれえいうてね。町長さんから姑に話があって、昔じゃどうもしかたないからね。あの頃は警察じゃ、陸軍じゃいうたら、『へぇ、へぇ』といってね。今ならちゃんとしてくれにゃ動かんけど。陸軍の大島さんという軍人さん(※4) も、引越してくれたら家族の生活はなんでも手助けするし保障するからと、約束もしたんですよ。」(武田英子(1987)『地図から消された島』P.19)

(※4) 忠海兵器製造所の初代所長・大島駿砲兵中佐

1929(昭和4)年5月19日。大久野島に設けられた工場施設は「忠海兵器製造所」として、大々的に開所式が行われた。
島の平地に野宴場が作られ、忠海から飲食店が出張し、忠海町長を始めとする知名人達が招待され祝福ムードに沸いたという。
折しも世界は空前の恐慌に突入しようとする直前のことであった。

地図から消された島

軍事施設が置かれた大久野島の存在は機密下に置かれることとなった。ここで軍事機密化前後の地形図を見比べてみたい。

陸軍参謀本部陸地測量部(1925)5万分1地形図『三津』(資料提供:国立国会図書館・許可を得て転載)

初めにお見せしたこの地形図は、1925(大正14)年のもの。ちょうど東京で毒ガスの研究が始まった頃である。右側中央あたりに見えるのが大久野島と、その左隣は無人島の小久野島。一般人の上陸が禁じられる2年前のことだ。

陸軍参謀本部陸地測量部(1938)5万分1地形図『三津』(資料提供:国立国会図書館・許可を得て転載)

そしてこちらが軍事機密下となった地形図である。右側一帯が全て空白となっているのが分かる。「地図から消された」との先入観から、海中のようなダミー表記を想像していたが、実際にはあからさまに隠されていたのだ。

軍事施設である工場で何を製造しているのかは一切公言禁止で、家族にも一切話せなかったとの証言が多数ある。また、私服憲兵が工員の留守中に自宅へ上がり込み、「主人はどこへ勤めているのかね」と家族にさぐりを入れていたという。

当時、忠海へ通学していた女学生が、不審な人物を見かけて憲兵に通報したという証言を残している。

「忠海高女には大崎上島から船で通学していました。(中略)船で通学しているとき、東野から乗船した見知らぬ男の人が窓のカーテンの隙間からカメラで景色を撮影しているのを目撃しました。一緒にいた友人と相談して届け出て、後に憲兵隊から賞状をもらいました。」(行武正刀(2012)『一人ひとりの大久野島 毒ガス工場からの証言』P.154-155)

憲兵に突き出された人物が無事でいたとは思えない。今思えばぞっとする話であるが、戦時下の価値観では不審者を通報した真面目な女学生であるので責められない。

毒ガスの増産

大久野島の工場群(中央はルイサイト工室)。建物は迷彩塗装されていた(1946年) 写真所蔵:Australian War Memorial

忠海兵器製造所はやがて「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」と改名され、増産が進められた。
主に製造されていたのは、イペリット、塩化アセトフェノン、青酸、ルイサイト、ジファニールシアンアルシンと呼ばれる毒ガスだ。なお、当初は青酸を使用した「サイローム」と呼ばれる殺虫剤の製造も行われていた。サイロームは市販され、殺虫困難と言われたカイガラ虫に強力な効果が見られることから、広島・愛媛の柑橘農家で大いに歓迎されたという。
しかし、これらはいずれも危険極まりない上、防護服の隙間からガスが入り込む等して負傷した工員が続出した。サイロームの製造中に死亡事故が発生したのを契機に安全対策が進められたとは言うものの、慢性気管支炎を中心として、戦後も重い後遺症で苦しみ続ける元工員が続出する。
工場内の環境は良好とは言えず、ガス漏れの危険がある場所には鳥かごに入れられた十姉妹が置かれたが、設置場所によっては2日と保たずに死んでしまうレベルだった。

3)小鳥の生存状況について
青酸関係工室に於ては、十姉妹、目白等を使用して工室内ガス濃度を測定し、中毒を防ぐ様配慮されていたのであるが、短い場合は数時間、長い場合でも2日位しか生存せず、多くの場合は12〜15時間位で死亡していたと云う。(後略)(中村照彦(1956)「日本に於ける戦用毒ガス傷害の研究 第1報 毒ガス島の概況に就て」『原著広島医学』(P.48)

毒ガスの使用

日中戦争が始まると毒ガスの生産量は急増し、太平洋戦争開戦の1941年にピークを迎えた。生産に携わる工員が不足したため徴用工(強制労働)として召集され、物資が不足するにつれて工場内の環境も劣悪となった。据え付けられた排風器が故障して工場内に毒ガスが滞留したり、防護用具の使用期間が延ばされる等、毒ガスの傷害を受ける工員数が増加していった。

大久野島で製造された毒ガスは中国で使用された。現地で遺棄された毒ガス兵器は今も現地の民間人にダメージを与えており、国際問題となっている。
(なお、論争が見られるためこれ以上の主張は差し控えたい)

余談だが、毒ガスは意外にも国内でも使用が検討されたことがあった。
一つ目は、1936年に発生した二・二六事件である。山王ホテルに立てこもった反乱軍の鎮圧のために毒ガスの使用が検討されたが、降伏によって回避されたという。
二つ目は、米軍の日本本土上陸計画「オリンピック作戦」にて、日本の各都市を毒ガスで攻撃する極秘計画があった。攻撃目標となっていたのは九州の各都市、広島、松山、東京。結構予定日は1945年11月1日だったが、日本の降伏でこれも現実化せずに済んだ。

戦後、毒ガスはどうなったのか

帝人三原工場[現・帝人三原事業所](2018年撮影)

帝人と大久野島の関係

1945年、終戦を迎えた大久野島には毒ガス3,240トンが残った。これらの毒ガスは極秘に処分されたのかと思いきや、意外なことに、処理を行ったのは大手繊維事業者の帝人である。個人的に帝人といえば、カトリーヌの企業CM「だけじゃない、テイジン」の印象が強い。あの帝人が何故、繊維と全く関係が無さそうな毒ガス処理を引き受けたのか。

帝人のWikipediaを見ても「大久野島」や「毒ガス」の記載は見当たらないが、答えは社史にあった。世間ではあまり知られていないように思うが、臨場感ある記述が23ページに渡って残されている。

戦前、帝人は広島県の岩国・広島・三原に工場を建設し、化学繊維であるレーヨン(人絹糸・スフ)の製造を行っていた。
戦況が悪化するにつれ、原料が不足したことから、昭和20年3月で止む無く化学繊維の製造を取り止め、軍需工場に転換。三原工場ではロケット戦闘機「秋水」(※5) の燃料「マルロ」を製造していた。

(※5) 太平洋戦争末期、米軍のB29を迎撃するため陸軍と海軍が共同で開発した、過酸化水素を燃料とするロケット戦闘機。国産初のロケットエンジン搭載機、開発にあたってドイツから潜水艦で設計資料を取り寄せたこと、対立関係にあったと言われる陸軍・海軍が協調して開発したこと等、特異点は多い。なお、試作機の段階で終戦を迎えたため実戦には使用されなかった。

余談だが、化学繊維の製造設備を破壊するよう急かす軍人に対して、帝人の従業員が取った行動からは工員のプライドを感じる。

工員にとっては、自分の使っていた機械を、自分の手で破壊できるものではない。軍人の見ている前では止むなくハンマーを振い、いない時にはこれを解体するようなことが屢々あった。また多くの場合、解体した方が仕事も早かった。しかし実情を知らぬ軍人には、一々解体するのが手ぬるく見えたのであった。(帝人株式会社(1970) 『帝人の歩み 5 灰燼』P.82)

毒ガス処理のため立入りを禁じた看板 写真所蔵:Australian War Memorial

1945年、日本の降伏で大平洋戦争は終結した。
日本は敗戦国となったことで、化繊産業は戦前のようにやっていけるのか、連合国が許さないのではと悲観的な見方が漂っていた。
1946年の年頭挨拶で、当時の帝人社長・大屋晋三は社員に向かってこう述べている。

祖国がどうなるかもわからない。まして帝人の社業が、従来通り化繊を中心として、やって行けるかも不明である。それまでは法被を着てでも、頑張らなければならぬ。その間は食って行けることなら、何でもやっていきたい。(『帝人の歩み 5 灰燼』P.175)

絶望の淵で会社を立て直すべく、帝人はあらゆる事業に目を向けていた。メインである化学繊維の製造加工販売の他に、農薬、医薬品、化粧品、食料品の販売、また製塩事業等、まさに「何でもやっていく」状態だった。
そんな中、製塩の好適地を求めて竹原を訪問していた大屋社長の元に、たまたま羽白忠海町長が出くわす機会があり、大久野島の話が交わされたという。
ここで帝人は大久野島に残る軍事施設を、製塩工場に転用することを計画。大蔵省や広島県等との折衝を経て国に申請した結果、「転用を認める代わりに、毒物処理を帝人が担う」ことが決まった。また、毒ガス工場に保有されている薬品の大部分も併せて帝人に払い下げられることになった。

毒ガス処理

1946年5月。進駐軍である英連邦軍より、毒ガス処理作業の担当を帝人三原工場が担うよう命令が下された。
当初、英連邦軍は毒性の強烈なイペリットやルイサイトを焼却して無毒化、危険性の少ないクシャミガスや催涙ガスは外海に投棄し、処分には2年を要する予定だった。

焼却炉の築造その他作業準備の期間を余裕も含めて150日とし、焼却に要する期間を焼却炉の能率を実働1日8時間4トンとみて、2,275トンの猛毒ガスの焼却を570日に計算し、併せて720日約2年間としたのである。如何にもイギリス人らしい、合理的な余裕のある態度であった。(『帝人の歩み 5 灰燼』P.200)

しかし、英連邦軍には化学兵器を専門とする将校が配属されていなかったため、米軍化学部の少佐・ウィリアムソンが派遣され、作戦の指揮が委ねられた。ウィリアムソンは英連邦軍の方針に対立。独自の作戦を主張した。

英連邦軍レドモンド少佐(左)・米軍ウィリアムソン少佐(右) 写真所蔵:Australian War Memorial

これに対してウィリアムソン少佐は、その期間を4分の1の半年間に短縮することを計画した。そのために猛毒ガスを含めて大部分の毒物を老朽の上陸用舟艇L.S.T.に搭載し、これを船もろともに深海に沈底させる方法をとった。アメリカ人らしく躁急で、また大まかなやり口であった。また流石に物量の国であると、当時窮乏のどん底にいたわれわれを驚かせ、また羨ましがらせたものであった。(『帝人の歩み 5 灰燼』P.200)

毒ガスを積み込むため米軍から提供された上陸用舟艇L.S.T.814 写真所蔵:Australian War Memorial

イギリス人とアメリカ人を比べた描写が印象的なのはさておき、ウィリアムソンの「老朽化した舟艇に毒ガスを積み込み海上で爆破し船ごと沈める」強引とも思える作戦は実行に移される。
忠海に英連邦軍兵器処理部監督官事務所が開設され、ウィリアムソンと英連邦軍レドモンド少佐が監督官として常駐、作業の指揮が執られた。

海没地点

毒ガスは突貫作業でL.S.T.に積み込まれ、作業中に座礁が発生し毒ガスが流れ出す事故を起こしながらも強行。
1946年8月12日21時50分、予定地点で爆破され海没した。その後も同様に第二船、第三船による投棄が決行された。

環境庁(環境省)の調査によると、今でも高知沖の海底に3,000トン以上の毒ガスが沈んでいる模様。

毒ガスの廃棄処理に引き続き、毒ガスの製造施設を火炎放射器で焼却して除毒する作業が行われた。作業は困難を極め、ウィリアムソン自身も中毒で倒れたとの記録がある。
1947(昭和22)年5月27日、毒ガス処理作業が完了。

大久野島には帝人の製塩工場が造られる予定だったが、朝鮮戦争が勃発したことで米軍の弾薬庫として再び接収された。
帝人は三原に「久野島産業」を設立し、農薬「テジロン」(かつてのサイローム)の製造を開始。かつて毒ガス工場で勤めていた人達の雇用を確保した(取り決めがあったという)。
大久野島が最終的に日本に返還されるのは、1956(昭和31)年のことである。

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