地図から消された島、大久野島探訪2(資料編)

毒ガスの島から国民休暇村へ

国民休暇村構想

1960年、観光の大衆化(レジャーブーム)により、各地の宿泊施設が値上がりしていた。そんな中、国民が利用しやすい価格で健全な宿泊施設を用意する方針で、厚生省による「国民休暇村計画」が全国の国立公園内22か所に持ち上がった。
朝鮮戦争が終わり米軍が撤収した大久野島も、瀬戸内海国立公園の指定を受けたこともあって、「国民すべての共有財産にしよう」との気運が高まった。
1963(昭和38)年、大久野島は国民休暇村に指定。ここに毒ガス工場の島が平和な休暇村へ、大きく生まれ変わることになった。

当初の休暇村大久野島の計画では、発電所跡は大体育館に改装し、小体育館(集会場・映画館)、野外劇場、遊園地、展望台までのリフトを造り、島内の道路にミニチュアトレーラーバスを走らせる構想だったようだ。
昔の観光ガイドを眺めると、リフトの写真が出てくる(現存しない)が、発電所は計画の変更があったのか体育館へ転用されることなく、廃墟のまま人知れず残り続けることになった。

平和学習の修学旅行先として

休暇村ができた大久野島は、戦争の加害者責任を考える場として、いつしか関西の学校の修学旅行先(原爆ドームとセット)として定着していった。

修学旅行シーズン恒例「さよならダイブ」

修学旅行同行のカメラマン撮影(1998年)

ザッバーン!!

えええええっ!?なになになに!?飛び込んだん!!
1998年秋。修学旅行帰りの100人近くの小学生達を乗せた船から歓声が上がった。休暇村職員のMさんがスーツのまま海に飛び込んだのだ。しかも雨の中、冬も近づく冷たい海に。
2年前、環境庁の調査で大久野島の土壌や井戸水から環境基準の2200倍を上回るヒ素が検出され、京阪神の小・中学校を中心に修学旅行のキャンセルが相次いで間もない頃の出来事だった。
身体を張ったMさんの姿は、小学6年だった自分の脳裏に強烈に記憶された。いや、大久野島を訪ねた修学旅行生全員が覚えていると思う。なお僕は悪い方に影響されて「Mさんに学ぼうの会」と言いながら友達と淀川に飛び込もうとしてたことを20年越しに白状しておきたい(やりませんでした)。

この豪快でドラマチックな見送りの発案者は、休暇村の一職員として大久野島に赴任していた義本英也さんだ。毎日新聞の記事によると、海に飛び込み始めたのは1993年頃。
「修学旅行にきた生徒たちに島のことを忘れてほしくない」
との思いで、修学旅行生の見送り中試しに港から海に飛び込んだところ、拍手喝采を浴びたという。その後義本さんは異動となるが、修学旅行生担当の職員の間で代々受け継がれてきた。なお、義本さんは2008年に支配人として大久野島に戻ってきており、支配人になっても飛び込み続けたそうだ。

さよならダイブは2010年には「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日)でも取り上げられ、全国に知られることになる。
しかし諸事情により、2017年のダイブを最後に今はやっていないそうだ。休暇村職員の方に理由を聞くと「いろいろありまして…」とお茶を濁されてしまったので、これ以上の詮索はしないでおきたい(誰か淀川に飛び込んだのかな)。しかし20年前に見た光景が、つい最近まで受け継がれていたことに感慨深い思いがある。

一大転機「ウサギの島」へ

冒頭にも書いたが、2018年現在、大久野島は野生のウサギが多数いる珍しい島として一躍有名になっている。
しかしウサギ島として話題になったのはごく最近のことだ。それまでには長い前夜があった。

「ウサギ島」ブームまでの長い前夜

現在、大久野島に生息するウサギの数は700羽を超えているが、昔からこれだけの数のウサギが生息していたわけではない。
戦時中、毒ガス工場では200羽近くのウサギが動物飼育舎で飼育されていた。もちろんペットではなく、毒ガスの効果を測定する動物実験に使われていたものだ。
戦後、生き残ったウサギ達は食用(まじか)となったが、一部はそのまま山に放たれたものもあったという。この生き残りが繁殖した…と思いたいところだが、実はそうでもないようだ。

戦後、島に残った毒ガスを除毒化するため、大久野島全土の地表に200トンのカルキを撒いて除毒化したこと(地表を約一寸の厚さで覆ったとのこと)、また二度に渡る山火事が発生していることから、ウサギが生き延びるには厳しい環境であったと言われている。

1963年、休暇村のオープンと同時に約30羽のウサギが島に放たれる。計画段階では「純粋な観光地として売り出すには、地理的にはもちろんのこと、ひ弱すぎる」との意見で一致していたことから、島のマスコットとして猿や鹿などと共に検討された結果ウサギを入れることにしたようだ。
なお、当時の観光ガイド類を当たってみたがウサギに触れているものは特段見当たらず、休暇村で出されるタコ料理や「世界一の送電鉄塔」推しなものばかりであった。
1971年、忠海の小学校で飼われていたウサギ8羽が島に放たれており、この時のウサギが観光客の残飯などで繁殖したという説が有力となっている。

人の腕まくら ウサ公が昼寝(中略)
迎えにきてくれた船のなかで、休暇村の従業員がウサギの話をしてくれた。去年の秋、ウサギを八匹放し飼いにしたのだそうだ。それが“ウサギ算式”に繁殖してこの春は五十匹を越えた。とりわけ人なつこいウサ公には名前をつけた。アケミにミドリ、それにマリである。名を呼ぶととんできて甘える。芝生で日なたぼっこしていると、人間の腕をまくらにして仰向けになって昼寝する。しかし、失敗談もある。アケミを呼んでいたら、宿泊客のこどもさんが同名であった。それでたいへんに恐縮したそうな。(後略)(読売新聞「瀬戸内海の“楽園”へ 大久野島 紺碧のきらめき 大三島 平家ゆかりの地」1972年2月3日東京夕刊(9頁))

戦後、大久野島のウサギに(おそらく)初めて言及した記事である。ウサギに女の名前を付けている休暇村職員はさておき、8羽のウサギが一年で50羽に増えていたことが分かる。ここから「ウサギ島」化への長い道のりが始まったのだ。

この後、野生のウサギがいる島として「知る人ぞ知る」地になる。
1999年、島内で毒ガスの残留ヒ素が検出され観光客が激減した時には、国民休暇村がウサギでアピールをしている。しかし現在ほど話題になったとは言えない。

毒ガスの島からウサギの島へイメージチェンジ——。戦時中、旧陸軍の毒ガス工場が置かれていた広島県竹原市沖の大久野島で、国民休暇村(河本利夫支配人)が、島に約五百匹生息するウサギを観光のシンボルとして売り出そうとPRに乗り出した。(中略)すでに、卯(う)年生まれの人の宿泊料の千九百九十九円割引も行った。ウサギを描いた絵はがきを作り、春には観察会や子供たちのウサギ仮装大会も計画。河本支配人は「ウサギで飛躍元年に」と期待している。(読売新聞「『毒ガス』の島・大久野島 ウサギでイメチェン 500匹、観光のシンボルに」1999年2月10日大阪夕刊(1頁))

SNSによるウサギ島ブーム(2014年)

2014年に前年比14倍。何があったのか

大久野島への外国人観光客の推移を見ると、2014年に急増(前年比14.7倍)していることが分かる。翌年の伸び方もただ事ではない。2014年に大久野島でいったい何が起こったのか。

2014年、ある旅行者がYoutubeに「Rabbit Stampede (Original) – Woman Chased By Hundreds of Rabbits -Cuteness」と呼ばれる映像を投稿。(参考:Things are looking a bit harey! Woman flees bunny stampede on Japan’s Rabbit Island
餌を持った外国人観光客が大勢のウサギに追いかけられる30秒ほどの映像。これが一気に世界的に拡散された(バズった)のだ。2018年現在、残念ながら元動画は見れないようだが、2017年時点で再生数は約247万回を超えていた模様。

増え続ける観光客数

外国人観光客の増加を日本のメディアが報じることで、国内の観光客も増加した。

ここはディズニーか(2018年・大久野島第二桟橋)

2018年3月、数年ぶりに大久野島を訪れた。
忠海からの連絡船は満員で一本見送り、次便のフェリーもデッキまで人が溢れかえるほどだった。毒ガス資料館は家族連れで混み合い、発電所跡をはじめ毒ガス関連施設跡の前に掲げられた説明板にも、多くの人がまじまじと覗き込む姿があった。廃墟部訪問時(2009年)と比べても別世界のようだった。
大久野島は今、新たな節目を迎えている。

発電所跡に居座るウサギ(2018年)

戦後70年。毒ガスの製造に携わった生き証人達が次々とこの世を去りゆく中で、外国人観光客がウサギに餌を与えながら自撮りを楽しんでいた。これぞ平和なのではないか。
大久野島の代名詞「ウサギ島」は、国や営利企業の思惑によって押し付けられたものではない。
また、過去の歴史が上書きされると危惧することも無いのではないか。現に、観光客が増えたことで毒ガス資料館の入館者数も過去最高を記録したという。

かつてない賑わいを見せる大久野島で、暗い歴史を今に物語る廃墟。
1990年、休暇村の拡張工事のため、発電所跡は取り壊される予定だった。しかし修学旅行で島を訪れた府中市の中学生達によって、取り壊しに反対する署名が集められ、取り壊し計画は撤回された。
長い間、人知れず放置されていた発電所跡には柵や解説板が設置され、建物のすぐ傍まで近付けるようになった。廃墟が「意味のある存在」として観光客の目に映るようになった。

大久野島の廃墟は発電所跡の他にも、火炎放射器で焼かれた跡が分かる毒ガス貯蔵庫跡や、芸予要塞の砲台跡等が今もなお残っている。
各製造施設の建物こそ解体されたものの、その跡地の一部はウサギの集まる広場となり、外国人含む観光客が笑顔になる場になっている。
現存する廃墟はゆっくりと風化しつつ、これからも観光客の関心を惹く存在として残り続けるだろう。

※この記事は特定の政治思想を押し付けるものではありません

【さい / 廃墟部】
参考文献・サイト
陸軍参謀本部陸地測量部(1925)5万分1地形図『三津』
陸軍参謀本部陸地測量部(1938)5万分1地形図『三津』
松本邦夫(1948)「毒ガス島の動物相とその消長」『広島医学 1』広島医学会
中村照彦(1956)「日本に於ける戦用毒ガス傷害の研究 第1報 毒ガス島の概況に就て」『原著広島医学』広島大学医学部
増田敬哉(1961)「毒ガスの島」『忘れられた日本:声なき白書』東京創元社
旅と資料の会(1963)「全国国民宿舎案内」秋元書房
桜火会(1969)『日本陸軍火薬史』
帝人株式会社(1970)『帝人の歩み 5 灰燼』
武田英子(1987)『地図から消された島−大久野島 毒ガス工場』ドメス出版
辰巳知司(1993)『隠されてきた「ヒロシマ」―毒ガス島からの告発』日本評論社
中国新聞「毒ガスの島」取材班(1996)『毒ガスの島 大久野島 悪夢の傷跡』中国新聞社
大川淳三(1996)「大久野島の語りをもう少し続けていきたい」『会報「記録にない島」第1号』毒ガス島歴史研究所
服部忠(2000)「秘録 大久野島の記」『会報「記録にない島」第5号』毒ガス島歴史研究所
行武正刀(2012)『一人ひとりの大久野島 毒ガス工場からの証言』ドメス出版
毎日新聞「観光の大衆化に『国民休暇村』―厚生省計画」1960年8月28日東京朝刊(11頁)
読売新聞「瀬戸内海の“楽園”へ 大久野島 紺碧のきらめき 大三島 平家ゆかりの地」1972年2月3日東京夕刊(9頁)
朝日新聞「世界初の『毒ガス資料館』、広島に 『平和』を肌で知った」1988年11月25日東京夕刊(3頁)
朝日新聞「悲惨な歴史伝える『毒ガス島』の白ウサギ 広島・大久野島」1989年12月8日大阪朝刊(26頁)
朝日新聞「大久野島の毒ガス遺跡残る 環境庁、反対運動に撤去断念」1990年8月15日大阪朝刊(24頁)
中日新聞「日本に毒ガス攻撃を計画 太平洋戦争末期に米軍 極秘文書で明るみ」1991年7月4日朝刊(5頁)
読売新聞「旧陸軍の大久野島・毒ガス資料館 ヒ素検出騒ぎで修学旅行など解約相次ぐ」1998年4月22日大阪夕刊(14頁)
読売新聞「『毒ガス』の島・大久野島 ウサギでイメチェン 500匹、観光のシンボルに」1999年2月10日大阪夕刊(1頁)
読売新聞「[旅]大久野島(広島)瀬戸の小島、ウサギの楽園」2007年5月7日東京夕刊(9頁)
朝日新聞「(よくばり湯の旅)平和を思うウサギの島、せと温泉 広島県」2008年5月20日東京夕刊(6頁)
毎日新聞「輝集人:『休暇村 紀州加太』総支配人・義本英也さん」2013年10月24日和歌山(21頁)
毎日新聞「島アングル2014:広島・大久野島 ダイブに歓声」2014年10月25日大阪夕刊(1頁)
読売新聞「観光客急増 広島の『ウサギ島』毒ガス工場跡 保存を」2016年11月4日大阪朝刊(31頁)
朝日新聞「毒ガスの島、風化の危機 大久野島の旧陸軍工場遺跡」2016年12月24日広島朝刊(23頁)
環境省「昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書 平成15年11月28日(平成16年3月31日更新版)」(2018.6.17参照)
The Australian War Memorial (2018.4.14参照)
大久野島ビジターセンター「大久野島ビジターセンター便り vol.79」(2018.3.31参照)
テレビ朝日「ナニコレ珍百景【珍百景No.499】「小さくても激しい島」広島県大久野島」(2018.4.7参照)
国土交通省 国土交通政策研究所(2017)「訪日外国人旅行者の国内訪問地域分布及び訪問地選択に関する調査研究」(2018.5.27参照)
竹原市(2016)「第3次竹原市都市計画マスタープラン 第2章 市の動向と改定の方針」(2018.5.28参照)
竹原市(2018)「大久野島への入込観光客数が過去最高を更新」(2018.6.9参照)
日本経済新聞「『ウサギの島』広島・大久野島に36万人 17年、過去最高を更新」2018年5月31日電子版(2018.6.10参照)
大久野島探訪1 | 大久野島探訪2

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